庭の竹
狭い庭一面に根をはっている竹が、今年もすくすく伸びました。
二階の屋根を越えて葉を茂らせ、風に大きく揺れるので、電線にかかりそうだし、影を落とすし、早く切った方がいいなと思いながらじっと待つのが例年の習わしとなりました。
待つのは、七夕です。
わが家は小学校の通学路にあるので、毎年、7月5日か6日に竹を切って、家の脇に並べ、「七夕の竹をどうぞ」と書いておくのです。
各学年の下校時間を見計らって、二、三度に分けて出します。
小学校の下校時間が学年によって違うので、早い時間に全部出して上級生をガッカリさせないようにです。
この写真で、途中で切ってある竹の先の方は、今頃小学生の窓に飾られていることでしょう。
ちょっと痛々しい切り口ですが、竹の精に許しを請うてお礼を言っています。
竹のプレゼント史
最初に思いついて、切り出した竹を早めに並べた時は、一夜にしてすっかりキレイになくなっていました。
前日の夕方から並べたので、夜のあいだにごっそり持ち去られてしまったのです。
多分、小型トラックか何かで、業者系の・・・ではないにしても、夜の間に全部きれいにというのが気に入りませんでしたΣ(゚д゚lll)ガーン
次の年は、下校時間に合わせて出したところ、遠慮がちに一、二本、次の日も数本、というように徐々に、数日かけて持って行ってもらえました。
毎年続けているうちに、子供たちの認知度も上がり、近所の幼稚園からも予約が入ったりして(笑)
帰りの遅い上級生に足りなくなってしまいました。
それでも心残り気にわが家の前を立ち去りがたい子供たちには、残った長めの枝を束にしてあげたところ、とても喜ばれました。
最近は、低学年の下校時間には、小枝の束を多めに用意します。
最近の住宅事情も考え、お母さんが働いている家庭では飾るのに大げさな竹は負担になりそうな空気も読んで、葉のつき具合や長さによって、大・中・小と工夫して出すようになりました。
それでも、すっかりなくなった後に来てくれる子供もいて、残り物の中から何とか工夫しています。
竹のおかげで嬉しい交流
年に一度のことではありますが、接点のない小学生との思いがけない交流の場になりました。
最近の小学生の様子や、友達関係、家庭の雰囲気も垣間見えたりします。
竹を出すと、気になって、なんかもめてそうとか、困ってる声なんかが聞こえると、すぐ飛び出してしまいます。
女の子がどの竹にしようか迷う時は、多くの子が、「こんな大きいのだと、お母さんにおこられるかな・・・」
飾る場所、手間と時間、後始末、そんなことをお母さんは考えなければなりませんからね。
(そういうことまで思い至る体験も役立つかもですね。)
友達がよろこんでもらっているので、それを見てもらおうかどうしようか迷っている子もいます。
そんな時は、「自分で飾るかどうかだよ」と言ってやります。
結果は、「飾りたい」と、「あ、じゃ、やらない」の二つに分かれます(笑)
(自主性って大事ですもんね)
つい私も、調子に乗って「交通事故に会わないように、気をつけて持って行ってね」とか、
「ふざけちゃだめよ」とか・・・
毎年のことなので覚えていてくれて、「毎年ありがとうございます」と言ってくれる子もいます。
「来年もお願いします。」とかね。
つい私も、「来年は何年生?」とか。
私の通っている書道塾にも竹の常連君がいたりして、親近感も増し、地域の住民が世代交代している中で知り合いがふえて嬉しいことです。
伝統文化の力
竹があっても、七夕まつりがなければ、小学生との交流は生まれませんでした。
共通の文化の力は人間関係を深め、地域を活性化するのですね。
しかも、災害時の協力とか、清掃とかと違い、七夕まつりは生活の必要とは関係のない、完全にフィクショナルな共感です。
もう、ロマンの共有ですよね。
これこそ人間的営みではありませんか。
世の中で人を隔てているもの、世代、職業、性差、などをやすやすと超えることができます。
最近は両親と子供だけの核家族が多いので、離れた世代との交流のチャンスも減っていますよね。
高齢の世代にも、子供たちにも、このような体験を持つことはとてもいいと思います。
伝統文化のもつ力の一端を垣間見て、文化を保持することの生きた意味を知りましたよ~。
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