子供のころから書道を初め、途中中抜きがあり、再開してから10年以上になります。
今回の書人展には、臨書を出すことにしました。
本来、書道の王道は臨書なのですが、私はずっとお習字感覚で先生に教えてもらう姿勢だったので、今回初めて臨書に取り組みます。
書道展に臨書
臨書というのは、他人の達筆をそっくりに真似ることです。
達筆というのは中国の古典を指しています。
書道展とは
書道
書も絵画や他の芸術同様、様々な流儀があり、正しいとか間違っているとか、上手いとか下手とか、簡単に言えるものではありません。
特に、書に道がついて「書道」となれば、書き続けることで成長し続ける、その過程であること、道中であることが目的と言えます。
成長度合いによって、段や格がありますが、これも、そのグループごとに勝手に決めているだけで、書道界全体で共通の基準などはありません。
そんなわけで、書道は終わりなき道なのです。
いつも、ずーっと修行中というわけです。
書道展
従って、書道展には、初心者から熟練までの書が平等に展示されます。
段も肩書も付けずに、成長過程の現時点での精一杯の書を出展します。
そして、面白いことに、模写である臨書が立派な作品として出品できるのです。
美術展でも、たまに「模写」というのがありますが、画学生の展覧会だったり、画家の修業時代の作品として参考資料のように扱われている場合がほとんどです。
模写が立派な作品として展示されるということは、修行中こそが書道の本命であることの証ではないでしょうか。
臨書こそ修行
学ぶという日本語は「まなぶ」とも「まねぶ」とも読んで同じ語源でした。
古語辞典(学研)をひも解くと、次のようにあります。
「まなぶ」
1 まねる、教えられたとおりにする。
2 学問をする。勉強する。
「まねぶ」
1 まねる。まねて言う。
2 そのまま伝える。
3 勉強する。教えてもらって身に着ける。
現代の使いかたとちがうのは、
「まなぶ」を「真似る」の意味に使っている例:
いつはりでも賢をまなばんを賢といふべし(徒然草)
=見せかけだけでも賢人の真似をするなら賢人と言える
「まねぶ」を「学ぶ」の意味で使っている例:
文才をまねぶにも、琴、笛の調べにも・・・(源氏物語)
=漢学を勉強するにも、琴、笛の音色にも・・・
昔の人は、身に着けるためには真似をすることが必要だと考えていたのですね。
書も絵も、道具さえあればだれでも描くことはできます。
お箸で豆をつまむほどの訓練もいりません。
しかし、上達したい、成長したいと思えば、先達の真似が役立つということに意義を唱える人はいないでしょう。
意義を唱える人は、特別な天才か、やったことのない人だと思います(笑)
臨書とは
中国の古典をマネすることです。
関連記事⇒「お習字と書道の間にある壁を超えるのは臨書の意義を実感した時」
臨書の場合、マネるには三段階あるようです。
一段階目:形臨
これは、見た目をまねすることです。
形や筆遣いをまねして、そっくりに書くことを目指します。
私は、そして、仲間のほとんどがこれです。
これがもう何年も・・私の場合、中抜きはあったものの、20年・・・やっているのにできません。
そっくりに書けないのです。
なぜかというと、筆の扱いが自分の思い通りにはなりません。
まだまだ筆を自分の体の延長として扱えないのです。
イメージがあって思ってはいるのに、書いても書いても思っている通りの筆跡ができないのですΣ(゚д゚lll)ガーン
多分私は、これで今生は終わってしまいます💦
私の先生は、私の字に朱を入れてなおしながら、さらさらと理想の線を書かれます。
私は、私だけでなく他の仲間も、筆が違うんだと思ってしまいますが、試しに私の筆で書いていただいても、やはり理想通りに書けてしまいます。
筆の違いではなく、腕の違いであることを認めざるを得ません(´;ω;`)ウゥゥ
筆を自分の体の一部のように扱うのは、本当に自分の腕なんです。
従って、臨書も、この第一段階は、身体訓練の段階と言えます。
ついでながら、私が10年以上使っている筆は最高です。
先生が私の筆で書いて見せてくれるのですが、毎回、
「いい筆ですね~」と感動されます。
熊野筆で「一休園」製の枯樹という筆です。
一休園 熊野筆 書道筆 純鼬毛半紙用 枯樹 曙塗り軸 4号
とても使いやすいうえ、十年たっても全然傷まないので、コストパーフォーマンスも最高です。
二段階目:意臨
自分勝手に書いて、バランスが取れてきて、「トメ」「ハネ」「ハライ」と言った基本の筆使いもできれば、それなりに上達はしています。
そこに勢いや流れが感じられ、筆先の妙技なども身に着け、それなりの味が出るようになれば、段もあがっていきます。
しかし、それは、どこまでいっても偶然にすぎません。
なぜかというと、できることしかやっていないから、書ける線しか書いていないからです。
手本があるということは、出来上がった字のイメージ(=理想)が与えられているということです。
イメージ通りに書こうとして、書けなかった線が書けるようになることこそ、本当の上達と言えます。
そして、実は、書けなかった線は、自分とは違う時代、自分とは違う気持ちの表現だということに気づく必要があります。
大げさに言えば、価値観、人生観といったものが自分とはちがうのです。
同じ字を書いても、社会や書く人の性格により、その字の指すもの、気分は違います。
それを想像し、理解しなければ、点の打ち方、力の入れ方、スピード感、すべてがそっくりの字は書けません。
これをやるには、自分を一時捨てる、いえ、捨てないまでもちょっと離れてみる必要があります。
別人になってみないとなりません。
自分の枠を外す必要があります。
この解放感、言い方を変えれば、変身願望に身をゆだねた自己放棄の心地よさは、癖になります。
私の一人芝居に通じる物がありますね(苦笑)
しかし、芝居はともかく、臨書で変身に酔ってる余裕はまだまだありません(-_-;)
そんなことに走ったら字形を忘れてしまう段階なんです。
臨書のこの第二段階は、書の達人の真実を模倣する段階です。
「まねる」という漢字を「真に似せる」と書くのは、この段階を指しているんですね。
第三段階:背臨、暗書
お手本から離れて書きます。
自分の中から、身に着けた字形がその気持ちにのって紙の上に出てくるまでになるのですね。
達人のお手本とそれを学んだ私が、いわば、1+1>2 になるのは、この段階です。
わぁ~、夢です( ;∀;)
これができたら、私の可能性が広がったと言えるでしょう。
個性とか、独自性とかを簡単に言ってはなりませんね。
個性と独自性、言葉は立派ですが、最初の「自分の字」は多分、二度と同じものは書けないような偶然の字で、個性さえも見えない未熟なものです。
最終段階
実は、どんな達人でも、何度でも思った通りに同じ字が書ける人はなかなかいません。
かなりの書家でも、納得できる字を書くのに徹夜をしてしまったという話をよく聞きます。
やはり、書道に終着点はないということですね。
4月半ばの書道展出品作品をそろそろ仕上げなければなりません。
現時点での最終段階と言えるものが書けますように!!
張猛龍碑
張猛龍さんを称えた碑のことです。
北魏(紀元386-534 中国の南北朝時代の国)の字なのですが、石碑が欠け落ちているので、拓本にしてもなかなか読み取れません。
でも、とても面白いのです。
この時代、この場所ではこんな字がきれいだったのですね。
普段はやらない筆使いや字のバランスのとり方で、とても勉強になります。
そして、そのクセが何となく私好みなんです。
尖ってて、歪んでて、しかも、それなのに危ういバランスを保ち、味があるのです。
石碑のせいもありますが、丸いところや流れるところがありません。
四角四面というより、三角三面と言いたくなります。
内容は、貧しい官吏が、親孝行で庶民にも優しい善政を施したことを称えるものです。
儒教的というのでしょうか。
これに惹かれる私の性格とか心理とかはこの際おくとして、怖いもの知らずで挑んでいます。
煩雑な日常をしばし忘れ、謙虚に没頭できる書道は、ストレス解消や精神的回復に最高の妙薬となっています。
書道を超えた書家國分絮紅が私の夢つむぎ工房に友情出品してくれてます。
[…] 私が偶然手をつけたのは張猛龍碑、かわった字体ではありますが、どんなものでも表現できるだけの筆扱いができてこそですからね。 […]