日本文学は遊び心が命
日本人は合理的だとか功利的だとか言われますが、言葉の芸術を見ても、それはうなずけます。
俳句は世界一短い言葉の芸術です。
言葉を徹底的に節約して、言葉では説明できない体験を伝えています。
ゲーム感覚でルールを決めている
少ない言葉で伝えるためには、一つの言葉に託した意味が多くなるのは当然ですよね。
それを共通で了解するために、俳句には季語があり、短歌には枕詞、掛け詞などの工夫があります。
(「桟や 命をからむ つたかずら」の「つ」の文字は板が朽ちて落ちています)
季語なら、例えばこの芭蕉の句、「つたかずら」は秋の季語なので、「山は秋が深くなって色づいたツタが」ということを「つたかずら」一言で伝えてしまうわけです。
これが「あおかずら」だったら、夏の季語なので「緑濃い山の中でセミ時雨の下を茂ったツタが」というイメージになり、秋が伝える寂しさや虚しさは伝わりません。
枕詞の代表「たらちねの母」は、母というものが赤ん坊にとっての唯一の食糧庫、つまり万人の命の恩人であると、イメージを押しつけてくるほど強烈に表現しています。
そして、なんといってもすごい言葉の節約は掛け詞です。
これってダジャレそのものです。
山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬとおもへば
かれぬ=枯れると離(か)れる
あの人も離れちゃって、草まで枯れちゃって・・・
ダジャレは立派な美の技巧だったのです!!
俳人や歌人はゲームの達人
ルール以外にも共通のキーがある
百人一首を読むと、結構よく泣いていますね。
女性も男性もメソメソしています。
これが日本の情緒、美意識の中味だったような気がします。
泣いたり、涙を見せたりするのが、お洒落だったのかもしれません( ;∀;)
「私は心動かしていますよ」というポーズです。
だから達人は、ルールを見事に使いこなしながら、泣き所を表現しています。
技巧派ですね。
遊びのセンスをもった、まさにゲームの達人です。
私も若いころは無知のままに西行が好きでした。
西行の境遇や知性を理解しないままに、泣き所に共感したつもりになっていたのです。
ハメられました(-_-;)
今になると、「涙」というのは、ゲームの記号の一つだったんだと思えます。
季語とは別種の心情的記号です。
秋の季語から秋をどのように感じるかは受け取る個人、鑑賞者一人一人によってまったく違ったものになります。
それと同様、「涙」という語で、私たちが感じる泣き所は、実は一人一人まったく違うものですよね。
人生体験や境遇、感性によってバラバラです。
それにもかかわらず、達人の詠んだ歌は、万人の鑑賞者に、各自の泣き所を体験させてしまいます。
技巧派を超える達人
約束事を駆使し、技巧的に、万人各自にそれぞれに合ったに泣き所を提供するなんて、ニクイ達人振りではあります。
俳句や短歌は当時の社交サロンの目玉だったでしょうね。
歌会、句会、連句や連歌の集まりは技巧派の腕の見せ所で、スターも生まれたことでしょう。
しかし、達人の腕は技巧にとどまりません。
今に至るまで俳人や歌人と呼ばれる人たちは、技巧を使いながら自らの世界観や真理を表現しています。
歌人・西行の歌を一首紹介します。
真鍋より塩飽(しあく)へかよふ商人(あきびと)は つみをかひにてわたるなりけり
真鍋も塩飽も瀬戸内海の島です。
「買い入れた積み荷を売りに島々へ渡っていく商人は、罪を櫂にして漕いでいるとも言える」というような意味でしょうか。
「つみ」と「かい」がダジャレになっています。
安く仕入れて高く売る商売を罪といっては、商業は成り立ちませんが、それをいけないことだと考える西行の潔癖な思想が見えます。
この歌の他にも、漁師や貝を獲る漁村の子供たちのしていること(=殺生)を「つみ」と掛けています。
ついでながら、西行のために、ちょっと寄り道します。
こんな潔癖な西行ですが、別の歌では、海女のたくましさに感心してもいます。
今で言うところの食物、生命の循環を節理として受け入れ力強く生きていく姿をまぶしく感じています。
自然の摂理でさえこんな風に感じる西行が、人間社会での権力闘争や弱肉強食の場面に身を置き続けられないのも想像できます。
西行がただの正義感の持ち主にとどまるのなら、「涙」の技巧を使った達人にはなれなかったはずです。
西行の涙は、自己矛盾の存在を自覚した時の唯一の抜け道、出家と同じ必需品だったと思います。
寄り道はここまで。
遊び心の育つ土壌
歌は貴族のものでした。
江戸時代になって、連歌から最初の五・七・五が独立して俳句になるころには、武士や町人の間でも流行りました。
どちらにしても、社会の上層部であり、庶民と比べれば暇と余裕のある人たちです。
余裕のある目で、自分たちの周囲を見回せば、西行のように、自分の存在自体が矛盾していたり、諸行無常を痛感します。
諸行無常とは、「この世は、法則のないことが法則である」というパラドックスです。
それを悟った時、諦めが生まれ、諦めてもなお命があるとなれば、もう目いっぱいやってやろうじゃないかという気持ちになります。
このイナオリとも言える気持ちから遊び心が生まれるのではないでしょうか。
遊び心とは、諦めの先に生まれる人生観なのかもしれません。
俳句や短歌を、色紙や短冊に、さらさらと流れる墨で書くのも、お洒落な遊び心の表れでしょうか。
そう言えば、書道、華道、茶道・・と、道がつくものは、なかなか技巧的ですよね。
文学に限らず、日本文化には、諦めの先の人生観が見え隠れしています。