菜の花にはおぼろ月と菜種梅雨(なたねづゆ)がお伴です
菜の花が出はじめてます
菜の花の黄色が畑にこぼれるのにはまだ少し早いようです。
でも、菜の花を食べました。
もっとも、食べるのは花が咲く前の今がベストのようです。
ちょっと苦みのある味に、春の気配を今年も感じました。
この苦みが、体を冬眠から目覚めさせると聞いたことがあります。
菜の花の栄養はこちら → 菜の花の栄養と食べ方
冬眠? 確かに!(笑)
寒さに緊張して縮こまっていた体の中で、のびのびと血流が勢いを増す気がします。
雪解けの春の小川のようにね(^_-)-☆
これは、昔の人も同じだったのでしょう。
俳句や童謡、短歌にも、菜の花は穏やかな風景描写、のどかな雰囲気を伝えるのに使われています。
歓喜や覚悟、決断など、厳しさや激しさ、あるいはもの悲しさを伝える花々の常連とは一味違いませんか?
菜の花とおぼろ月が登場する文芸
☆古くは、江戸時代、「菜の花や月は東に日は西に」と詠んだのは蕪村。
旧歴3月10日から15日ぐらいに詠まれたそうで、新暦では4月になります。
これは、菜の花が一面に黄色い絨毯を織りなしていた風景なので、たしかに4月で納得です。
菜の花は、近くでみれば細長い茎の上で可憐に風にそよいでいますが、「月は東、日は西」と全体を見渡している表現では山の上から月と夕日と黄色い菜の花を一望していたと思われます。
だから、絨毯に見えたかな、と私はかってに想像しています。
蕪村のこの句は、夕暮れのぼんやりした明るさです。
穏やかな風景ですよね。
☆大正時代には、唱歌『おぼろ月夜』の中で、「菜の花畑に・・・・おぼろ月夜」と歌われていますね。
この歌でも「入日薄れ」「霞深し」「春風そよふく」と、蕪村の句とおなじのんびりした気分を伝えてきます。
☆私の好きな平成の歌人・帯野寿美子には、こんな歌がありますよ。
「菜の花の 飯(いい)さみどりに炊きあげぬ 朧の月をまらうどとして」 注:まらうど=まろうど=客人
菜の花を炊くと言っても、お米と一緒に炊き込むわけではありません。
炊きあがったご飯に混ぜるだけです。
「さみどり」は白いごはんとの対比で、菜の花のみどりが鮮やか浮き上がって目に飛び込む印象がよく伝わってきませんか?
この歌も、色鮮やかな混ぜご飯をおぼろ月を見ながら食べる、自然に溶け込んだ穏やかな気分を伝えています。
菜の花が、のどかで穏やかな気分を伝えるのはなぜ?
菜の花がのどかな季節に咲くからとか、草花だからという理由だけではないように思います。
自然のままにしなやかに、ムキにもならず、気高い自己主張もせず、風が吹けば揺れ、雨が降れば一緒にずぶぬれになりながら運を天にまかせています。
菜の花のそんな生き方や、か細い姿に、ストレス一杯で生きている私たちはホットするのではないでしょうか。
「そうか、これでいいんだな」って思わず肩の力がぬけます。
精一杯咲けばそれでイイジャナイのって安心させてもらえる気がします。
大勢で群れながら、実は自立していて決して運命共同体じゃないところも私は好きです。
菜の花には雨もつきもの
菜の花の季節は、冬から夏への季節交代が始まるときで、高気圧はもっぱら北にぬけ、南からは低気圧が緯度をのぼってきます。
太平洋側は雨降りの日が増えてきます。
名付けて「菜種梅雨」
6月の梅雨と違い、菜種梅雨は、降っても寒くないうえ、ムシムシすることはないし、最近では花粉を抑えてくれるので、気持ちもゆるみます。
ここで一句。
会席の碧き徳利や菜種梅雨(拙句)
古典をひも解くまでもなく、あらゆる季節の喜びも辛さも、私たちが初めてなんてものはありません。
これから何を体験するにしても、先達もたどった道を、私なりにたどってみようと思える、のどかな季節となりました。