着付けというスキル
着物で書道の新年会
母が元気なうちに習っておけばよかったと思うことの一つに、着付けがあります。
昔の人は、毎朝、着付けをやっていたのですから、慣れたものでした。
私など、マネキンのように両手を広げてつっ立っているだけで、福良雀とか二重太鼓とか、手品のように結んでもらっていました。
母が居なくなってだいぶたってから、着物を着てみたくなり、タンスや、衣装箱を開け、小物なども全部取り出してみたことがあります。
母が使っていたのを覚えていて懐かしくなるものもありましたが、使いかたや使う場所が分からないものもありました。
おりしも、友人が職場に和服で登場、理由を聞くと、親戚から着物を大量にもらったので普段に着ることにした、と言うのです。
すると、同僚のスペイン人の女性が、じつは和服が大好きで、和服で文楽を観に行っていると言うではありませんか。
その場で、私を入れた3人の「和服の会」が発足しました。
私はひそかにYou Tube で着付けを勉強、にわか仕立ての着付けで第一回「和服の会」に臨みました。
3人が揃ったとたん、私の和服姿は、二人の4本の手で引っぱったり突っこんだりもみくちゃ状態で直されたのでした。
ス、スペインの人に「アレコレアレコレ・・・」言われるのか💦
あれから思えば、上の写真、私の腕も上がったものです。
アップにすると脇がまだ甘いですが、一日この姿で書道の新年会、その後のお茶会、車に乗ったり降りたりしても、一日中少しも着崩れませんでした\(^o^)/
母が私のために作りおいてくれた着物と帯、袖を通したのは二度目です。
よかった、よかった。
着物の着方というハウツーは教えたり習ったりできるものですが、
上手に着るというスキルは、自分の体で習得する必要があるんだなと、つくづく実感しました。
和服は芸術と実用のハザマ
芸術とは?
芸術家と、鑑賞者という二つの立場があります。
与える側と受け取る側、対照的な二つの立場なので、同じ芸術でも、見え方は違います。
1 芸術家にとっての芸術とは?
芸術は爆発だ!という有名な言葉がありますよね。
この言葉が岡本太郎の口から発せられたのを同時代人として知っている身には、まさに「ロックだなあ」という気分の方が先に思い出されます。
私の先入観はともかく、この言葉は芸術家の立場からの芸術をよく表しています。
芸術とは、「表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」とWikipediaにあります。
定義というのは客観的であくまでも実例にもとづいたマトメなので、これに反対はしません。
ただ、芸術家が自分は鑑賞者に変動をもたらす活動中であると自覚しているわけではないと思います。
結果が成功か失敗か、鑑賞者が精神的・感覚的変動を手にするかどうかは、表現者には分からないことだからです。
表現者にとっての芸術活動は、一方的な内面からの爆発なんですね(笑)
着物は、繭からもらった糸を染め、織り、仕立て上げるという芸術的表現の連携で私たちの手に届きます。
帯や帯締め、その他すべての小物も同じです。
こういう表現は、思い立ってすぐできるものではありません。
材料の硬さ、性質、時間や手をかけてどのように変化するかなど、一生をかけて、あるいは先祖から何代もかけて分かっていくものです。
国宝級の表現力の持ち主がこの分野には多いのも納得です。
例えば、そんな芸術家の一人、染色家の志村ふくみのエッセイが手元にあったので、ちょっとひも解いてみると、芸術家の命の爆発体験がつづられています。
偶然開いたページから引用してみますね。
「・・・あやうい色を追いかけて、足もとの地が崩れるような思いを繰り返しながら、ますます深みに落ちていくようです。」
「何かに染めずにはいられない。何百年、黙って貯めつづけてきた榛の木が私に呼びかけた気がしました。」
プロフェッショナル 仕事の流儀 染織家 志村ふくみの仕事 いのちの色で、糸を染める [DVD]
白のままでは生きられない―志村ふくみの言葉 (生きる言葉シリーズ)
2 鑑賞者にとっての芸術とは?
先のwiki には「精神的・感覚的な変動」とありました。
鑑賞者の立場で、生の言葉を使うと、「ショックとか感動」という体験のことだと思います。
他人の表現活動によって私の中にショックや感動が生まれれば、私は芸術的体験をしたと言えるのでしょう。
あるいは、着物を常識外れの帯と組み合わせて、見た人に「すてき~!」と喜んでもらえたら、それも新しい芸術的表現になるのかもしれませんね。(笑)
芸術的価値を測る基準
芸術の評価は難しい。
発表されて大人気になるものが素晴らしいとは限りません。
もてはやされても後世にまったく評価されないものは山ほどあります。
逆に、まったく評価されず不遇の生涯を終えた画家は多いです。
セザンヌ、ゴッホ、アンリ・ルソー・・
私の評価基準
優れた芸術は、本質を表現し伝えているものだと思います。
本質というものは、日常生活から、個別のもの、どうでもいいものを取り払って、最後に残る真髄・エキスです。
人間の本質、社会の本質、人生の本質、何ごとの本質であれ、それを説明抜きに伝える力が芸術の力ではないでしょうか。
そんな力がもっともよく感じられる芸術には、共通点が二つあります。
1 シンプルであること
個々の具体的なものは複雑です。
人間でも、子供でも、個人には個性があって複雑です。
でも、優れた画家は、「子供」の本質をシンプルな線で表現することができます。
この時、結果として、象徴化が行われています。
そして、シンプルであることの何よりのメリットは、本質が分かりやすい点です。
2 普遍性があること
普遍性ということも個別を超えたところにあります。
逆に言うと、どんな個別のものにも当てはまるということです。
私のできごとにも、あなたのできごとにも共通しているものが伝わる、ということです。
実用的な道具にも芸術性がある
★お箸の芸術性と実用性
西洋のナイフとフォークは、獣をさばき扱う時の道具がそのまま食卓にまでのったものです。
それと比べて、お箸はたった二本の棒で食べ物を口へ運べます。
ナイフの代用も、フォークの代用もできて、さらにナイフとフォークを一緒に使って口へ運ぶ動作までできてしまいます。
芸術的価値が高いと思うのは、流れるような線で先を細くしているあの形です。
いわば手の延長、手の可能性を象徴的に表現しています。
お箸は、シンプルで、普遍的で、同時に実用品です。
但し、実際に用いるには、スキルが必要になります。
★着物の芸術性と実用性
洋服は、個人の体形に合わせ、寸法をとって体にピッタリフィットするように作られています。
個別性に徹していますので、他の人には合いません。
着物はどうでしょう。
形も長方形の組み合わせで、シンプルです。
太っても痩せても調節して着ることができます。
同時に実用品としても、袖というポケットまでついて便利です。
ただし、着付けというスキルが必要です。
芸術品を実際に用いるにはスキルが必要
お箸も着物も、芸術性が高いです。
しかし、というか、だからこそ、実用にはスキルが必要になります。
なぜなら、芸術は、具体的な個々のものを、シンプルに普遍化しているのに対し、
実用は、個性ある個人が個々の物を個別的に扱わなければならないからです。
道具をこちらへ近づけるのではなく、こちらから道具に近づかなければならないのですね。
人間て、簡単で楽な方がいいですが、訓練して上達したいという向上心も強いです。
スキルが上がると、それが楽しくなってますます腕を上げたくなりますよね。
個人の成長も、社会の進歩も、この向上心あればこそですね。